大磯城山公園の歴史
公園内からは縄文時代の遺跡や、横穴墓、鎌倉古道などの文化遺産が発見されています。また、中世には小磯城が建てられていました。
明治28年(1895年)、この地が三井財閥本家の別荘地となり、中心的建築物「城山荘」や展望室「養老閣」、国宝の茶室「如庵」などが建てられました。
財閥解体後は、ほとんどの建物が三井家の手を離れ、残った土地も放置されていましたが、その後、三井別荘跡地の再利用案として公園化計画が持ち上がり、県立都市公園整備工事が開始され昭和62年(1987年)に神奈川県立大磯城山(じょうやま)公園として開園しました。
昭和45年(1970年)まで設置されていた三井家の建物の写真を紹介します。
公園内には建物があった場所に案内板がありますので、ご来園の際に面影をたずねてみて下さい。(写真:大磯町郷土資料館提供)
中門(海會門)
薬師寺(奈良)、菅原寺(奈良)、浅草寺(東京)などの古材を用いて作られています。柱は薬師寺の鐘楼の柱を使い門扉は当麻寺(奈良)の講堂扉、梁は菅原寺、肘木は浅草寺のもの、鬼瓦および棟瓦は菅原寺金堂瓦を使用するなど、多数の寺の古材を用いて建立されました。場所は現在の南門にあたります。
流雲橋と仙遊門
階段の上にかけられていました。橋げたの礎石の一部が現在でも残っています。階段の昇り口には仙遊門が設置されていました。
場所は現在の横穴墓群への道になります。
城山荘本館車寄
中門から北に向かって坂を登ってゆくと本館が姿を現します。玄関前で大きく曲がり車寄として三井家の方々が車の乗り降りをされました。
場所は現在の亀蔵門のところです。
城山荘本館
建築家久米権九郎設計の木造建築物で、昭和9年(1934年)暮れに完成しました。 本館中央には「養老閣」と呼ばれる四層の塔屋があり、最上階は展望室となっており、屋根には鶴の飾りが取り付けられていました。 この建物は全国の寺社の古材を使用して建設され歴史的にも非常に価値の高い建物でしたが、昭和45年(1970年)に名古屋鉄道株式会社の所有となった後、解体されその部材は京都に運ばれました。場所は現在の展望台あたりです。
法雲堂
主として薬師寺(奈良)の古材が使用されており、「ひかりの広場」周辺の建物の中では最も遅く完成しました。台座の部分はそのまま残されており、現在はあずまやがその上に設置され江ノ島、三浦半島を眺望する初日の出スポットとして親しまれております。場所は現在の休憩所のあたりです。
等持閣
屋根が上下二層になり、上層は浅草寺(東京)観音堂内の厨子を使用し下層は菅原寺(奈良)の古材、瓦は菅原寺金堂のものを使用しました。場所は現在の休憩所あたりです。
大圓亭
柱は今宮神社(京都)の鳥居柱、鬼瓦は浅草寺(東京)の古材を使用しています。あずまや風の休憩所として作られ、座形状は正八角形となっています。場所は現在のひかりの広場のところです。
六窓堂
正六角形のあずまやで、現在は外周礎石だけが残っています。柱は薬師寺(奈良)の鐘楼、その他は王福寺(大磯町)の古材を使用して、内部敷瓦は敷地内の城山窯で焼かれました。当時は大島や三浦半島、江ノ島が遠望できました。場所は現在の休憩所のところです。
洗心寮
万福寺(奈良)の向拝を用い、瓦は菅原寺(奈良)のものを使用しています。
場所は現在のひかりの広場の奥あたりです。
大雄殿
薬師寺(奈良)にあった旧摩利支天堂を移築したものです。 昭和45年(1970年)に解体された後、滋賀県大津市にある覚性律庵に移築再建されました。
場所は現在のひかりの広場から上にのぼったところ(スイセン広場)です。